扁鵲(へんじゃく)

 

扁鵲は私が尊敬する中国春秋時代末期の(今から2500年位前)の医師(針灸師)です 司馬遷の史記・扁鵲伝や趙世家に記載があるのですが加册、刪改、錯册などがあるようでかつ内容が難解な章があり分かりにくいとされています 以下私流に編集をして記します

 

扁鵲は渤海郡鄚(ばく)県の人(今の河北省任丘市から河間市あたり つまり北京市の南140−150キロ付近)姓は秦(しん)名を越人(えつじん)と言います 若いとき人の舎(客用の宿泊施設)の支配人でした そこの客に長桑君がおりました 扁鵲一人が彼を奇人として常に丁重に扱っていました 長桑君も扁鵲が只者でないことを知っていました こうして十数年が経ち 長桑君が密かに扁鵲を呼びよせて言うには『私は秘密の医術を知っている 年老いたので貴方に伝えたいと思う 他言してはいけない』 扁鵲 『謹んでお受けいたします』と答えた そこで懐から薬を出し『これをきれいな水で飲めば30日で物を知ることが出来るだろう』と言いかつ秘密の医学書を悉く取り出し扁鵲に与えた後スーと姿を消した それはとても人と思えなかった 扁鵲はその言葉のとおり薬を飲み30日経つと垣根の向こう側の人を見ることができた この術で病人をみると五臓の症やしこりをことごとく見ることができた 特に脈を良く診るとの点で名が天下に聞こえた 医者として或る時は斉 或るときは趙に住んだ 趙に住んだ時 人々の彼に対する尊称或いは尊号が扁鵲であります 有名になってからも 邯鄲に行き、そこの人が婦人を大事にすると聞くと婦人科医を務め、洛陽では周の人が老人を大切にすると聞けば眼耳鼻科と老齢(痛みしびれ)病の医者になった 咸陽に行き秦の人が子供を大切にすると聞けば直ちに小児科医を勤めるなど、土地の習俗に従い柔軟に対応した 秦の王様付の医務長官が自分の技術はとても扁鵲に及ばないことを知り、人を使い彼を暗殺した。今なお医の世界で脈について語るものは扁鵲におかげをこうむっているわけです

この後 扁鵲の診察にかかわる挿話が三つ記されます 扁鵲その人より当時(戦国時代)の医療がどの様なものかを窺い知る内容なので後述します 先に何故 扁鵲と尊称されるかを記します

 

何故 扁鵲と尊称されるのか

 

 彼の姓は秦 名は越人 です 扁鵲とは人呼んで『扁鵲』です

それでは扁鵲とはどういう意味なのでしょう それは『風に乗ってすいすいと舞い踊るかささぎ』との意です 扁鵲の生地は趙の東北端です 趙氏の遠祖は黄帝に繋がる婦人である女脩が機織している折燕が卵を落とした それを呑んで産まれた人です 先祖である中衍氏は『人面にして鳥嘴』で殷王を助けたとか 中衍氏は『鳥体にして人語する』或いは『口と手は鳥に似ている』別に『天帝が趙襄子に対し---子孫は王となりその顔は真っ黒で鳥の嘴をしている---』等の伝承があり趙氏とその人民は『鳥』を先祖として崇拝する篤い信仰(トーテム信仰)を有していたわけです この時代には既にからすが鳴くと不吉 かささぎが来ると吉兆との世俗があったようで 禽経にも『霊鵲兆喜』の記載が有り かささぎが鳴くと良いことが起きるとの注釈があります ここから想像すると『愛鳥喜鵲』は扁鵲の時代の趙人にとっては共通感情で有ったのです  

 

 さて扁鵲は長桑君より医術を受け徐々に名医として名をあげるのですが医師としての業態は走方医(自分から患者を診察に行く一箇所が終われば次へ行き又別人を診る)です 彼の訪れにより病苦から解放される趙人がいつしか ひらひらと風に乗り舞い踊る鵲と重ね合わせ『扁鵲』と尊称或いは尊号を奉り秦越人と本名を呼ばなくなったのです 

ついでながらこの時代は人民の識字率は大変低く仮に読めたとしても各国の文字は異なる例が稀でありませんでした そこで扁鵲は道を行く際 のぼりに文字を書くのでなく 竹を編んだか薄い木板の上に軽々と舞うかささぎを描きそれを棒につるし弟子に持たせ道行く人の注意を引いたことでしょう 村の子らは扁鵲一行の列にまといつき ああ扁鵲だ扁鵲だと口々に叫んだことでしょう そこですいすいと風に舞うかささぎの絵は今で言う 登録商標 一寸言葉が硬ければ 扁鵲の マスコット とか キャラになりました この騒ぎを聞いて村の有徳者が宿と診療の場所を提供し治療が始まります やがてうわさを聞き遠いところの病人をもっこに乗せ戸板に担ぎ治療してもらうため人々が駆け付けた事が目に映るようです こうして一村の治療が終わると次に移るというわけです かささぎが幸せをもたらすという話を下敷きに扁鵲の技は口コミで他国にも伝わりいつしか『扁鵲』が代名詞となり秦越人の尊称或いは尊号となったわけです

 

さてさて次に史記 扁鵲伝の挿話について記しましょう

中国戦国史に興味の無い方 医療史に関心の無い方は別のページに移ってください

 

挿話

の1 扁鵲 趙簡子を診察する事

晋の頃公と定公の頃(紀元前500年の前後25年程)諸大夫が強く公族が弱く大夫の趙簡子が国事を切り回ししていた 紀元前501年簡子が病気になり五日間人事不省になった 大夫は皆心配して医師の扁鵲を召しだした 扁鵲は病人を見て退出してきた 董安于(人名 簡子の腹心の部下)が扁鵲に質問する 扁鵲が答えるには『血も脈も治まっています (しかし人事不省とは)奇怪なことです 昔 秦の穆候が同様な体験をしました 七日間人事不省の後で目が覚めてその日に大夫の公孫支と子輿に言うことには?私は天帝の所で大変楽しかった 長くそこにいたのは宜しく学ぶところが有ったからである 天帝が言うには晋は多いに乱れ五代にわたって安定しない その後は覇をなすがその者は老いずして死ぬだろう 覇者の子は(淫乱)で男女の区別が無くなるであろう” そこで公孫支がこの事を記録し蔵しておきました この事実を秦策が書いたのです(と司馬遷が後に記した 注1) 献公の乱、文公の覇、そして(晋の)襄公が秦軍を淆で破り帰国して淫乱放逸した事等は貴方も聞き及んだことでしょう 今主君の病気はこれと同様です 三日を出ずして小康があるでしょう その間に必ず言葉を話しましょう はたして二日半で目覚めて諸大夫に言うには?私は天帝の処ではなはだ楽しかった 百神と天に遊んだ 多重編成の音楽会、数々の踊り (夏、殷、周)三代に無かった様な音楽 その音色に心を動かされた 熊がいて私を引っ張ろうとしたので天帝がこれを射ることを命じられた 熊にあたり死んだ 羆が来た 又これを射ると中り羆は死んだ 天帝は非常に喜びふた揃いの箱を下さった 箱はそれぞれ対になっていた 私は天帝の側で子供を見かけた 天帝は一匹の瞿産の犬を私に預けて言いますには『この子が大きくなるに及んで犬を授けるのだぞ』と さらに天帝が言いますには『晋国は代々衰えて七世にして亡ぶであろう 嬴(えい)姓の者(趙)は周を范魁の地で破るだろうがこれを領有することは出来ない』と”董安于はこれを書き留めて蔵しまた その後で扁鵲の言葉を簡子に告げた 簡子は扁鵲に田四万畝を褒美に与えた

 

注1 この文章は扁鵲が述べた事になっているが名医とはいえ在野の者が秦の何十年も前の公文書を知るわけもない 秦策は漢代に司馬遷が史記を書くために読んだ先行歴史資料と同じものを基にして劉向により編集されているのですから衍文か司馬遷の注釈が入り込んだと思われます

 

安大夫解説

この章の主題は紀元前501年頃 扁鵲が趙簡子を診察したとの記述だけです 従って扁鵲は春秋時代末期の人なのです 仮病の話は趙簡子と腹心の部下 董安于が趙史に書き加えた(改竄した)ものです 晋の六卿の一人として熾烈な生き残り競争(正に戦国時代)の渦中で仮病を使い天帝の名において主家の滅亡、同輩の隷属を予言するという政治的虚構 その虚構により趙の国人を鼓舞し難局を打開する 苦心の傑作です その為 扁鵲その人も含め虚構(フィクション)であるとかなりの専門家が誤解をしている所が問題なのです そうではなく趙史を改竄するに当たり扁鵲という実在の有名人を引き合いに出し虚構を現実であるかのようにした事が肝腎な点なのです 何故趙簡子が仮病を使う必要が有ったかは別の機会に趙史の立場で一文を書きます

そこで扁鵲が紀元前501年頃の人とすると同じ扁鵲伝の中で次の章に矛盾が生じるといわれています

 

その2 扁鵲 虢(かく)の太子を蘇生させる事

この章の主題は扁鵲がどのような針灸治療を太子に施したかとの事ですがそれはその3 の内容と共に記します 次に副題として虢がいつの時代で何処の事かということで扁鵲の実在を否定されるのです

一般に虢国とは東虢(紀元前767年滅亡)、西虢(紀元前687年)と北虢(紀元前655年滅亡)の事ですからどこかの太子を蘇生させたならその1の趙簡子

の話まで少なくとも後160年位は生きていなければなりません それは人間の寿命として無理なのでこの話は扁鵲の医術を語るための寓話であろうとの解釈が一般です 問題は虢国が上記の他いつの時代のどこに有ったのかという事です この時代はある国を滅亡させたままその祭祀を絶やすとその先祖が祟りをなすとの信仰があった時代です ほんのささやかな邑を与え虢の祭祀を続けさせたところが虢です 例えば春秋戦国図、戦国疆域図、前漢地理図は皆上述の虢国の他さらに虢国を示しています その位置は趙国鄚県の南、高陽の北です 或いは春秋左伝昭公五年(紀元前535)の項には『斉公が虢に泊まる』とあり虢は燕領内との注が有るのもその例です 元は趙領 恵文王の5年に燕とこれを鄚とを交換しました 鄚は扁鵲のふるさとです 更には昭公元年(紀元前541年)の項には『晋卿趙武等十一国の重臣と虢において会合』とあるのもその例です 虢君(太子の父    )は扁鵲を向かえ自ら『偏国寡臣』

と言っております 今の河北省内丘県神頭村一帯にこの歴史的遺物と伝説が残っていますがここが虢の祭祀を祭る小邑かもしれません

 

3 扁鵲 斉の桓公を診察する事

斉の桓公は 〜紀元前643年の人ですから扁鵲と会うはずがありません この他にも扁鵲が秦の武王を診断する或いは蔡の桓公を診断するとの話があります いずれも戦国時代の縦横家が君主を説得する話の種に扁鵲の病気に対する見立てを利用し(政治決断が)手遅れになると命取りであるとの主張をしているのです

 

この後に扁鵲の六不治との章が付け加えられます 現代でも通用する点がありますので別のページで紹介しましょう

 

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